コラム

「全部のタイミングが揃った」~役員対談:萱野×舩島~後編

「全部のタイミングが揃った」~役員対談:萱野×舩島~後編

(前回からの続き) 萱野:コロナの時期って、本当に宿泊業界が一気に止まりましたよね。 うちも予約がほぼ全部キャンセルになって。 舩島:かなり厳しかったですよね。 「これどうしたら良い?」っていう相談を、色んな人から受けました。 萱野:その中で、自分はオリジナルTシャツを作ってECで売ってみようと思ったんですよね。 ゲストハウス一本だと危ないなって。 舩島:それを聞いた時、僕は可能性を感じたんです。 ECって、売れるものはいずれどこかに真似されたりするんですけど、 萱野:はい。 舩島:でも、アイヌの人たちが、自分たちの文化をベースに作る商品って、簡単に真似できないし、 誰にでも作れるものでもないから、そこにものすごく可能性を感じました。 萱野:それで「ブランド化した方がいい」って言われたんですよね。 舩島:そうそう。 ただ問題は、「誰がデザインするんだ」って話で。 萱野:そこですよね。 文様のルールが分かってても、“欲しくなる商品”にするのって別のスキルだから。 舩島:そうなんです。 で、ちょうどそのタイミングで、鳥海さんが札幌戻ってくるってFacebookで見たんですよ。 「これは来たな」って思いました(笑)。 萱野:タイミングが全部噛み合ってる。 舩島:本当にそう。 実は鳥海さんとは、もっと前からの知り合いで、 彼女が学生時代に、うちの会社でアルバイトしてたんですよ。 萱野:そうだったんですね。 舩島:札幌市立大学の学生で、すごく一生懸命やる子だったんです。 それで、卒業制作の時に「アイヌ文様をテーマにやってみたら?」って話をして。 萱野:ランプシェードの作品ですよね。 舩島:そうそう。 下から見るとアイヌ文様になってる作品で、すごく良かったんですよ。...

「全部のタイミングが揃った」~役員対談:萱野×舩島~後編

(前回からの続き) 萱野:コロナの時期って、本当に宿泊業界が一気に止まりましたよね。 うちも予約がほぼ全部キャンセルになって。 舩島:かなり厳しかったですよね。 「これどうしたら良い?」っていう相談を、色んな人から受けました。 萱野:その中で、自分はオリジナルTシャツを作ってECで売ってみようと思ったんですよね。 ゲストハウス一本だと危ないなって。 舩島:それを聞いた時、僕は可能性を感じたんです。 ECって、売れるものはいずれどこかに真似されたりするんですけど、 萱野:はい。 舩島:でも、アイヌの人たちが、自分たちの文化をベースに作る商品って、簡単に真似できないし、 誰にでも作れるものでもないから、そこにものすごく可能性を感じました。 萱野:それで「ブランド化した方がいい」って言われたんですよね。 舩島:そうそう。 ただ問題は、「誰がデザインするんだ」って話で。 萱野:そこですよね。 文様のルールが分かってても、“欲しくなる商品”にするのって別のスキルだから。 舩島:そうなんです。 で、ちょうどそのタイミングで、鳥海さんが札幌戻ってくるってFacebookで見たんですよ。 「これは来たな」って思いました(笑)。 萱野:タイミングが全部噛み合ってる。 舩島:本当にそう。 実は鳥海さんとは、もっと前からの知り合いで、 彼女が学生時代に、うちの会社でアルバイトしてたんですよ。 萱野:そうだったんですね。 舩島:札幌市立大学の学生で、すごく一生懸命やる子だったんです。 それで、卒業制作の時に「アイヌ文様をテーマにやってみたら?」って話をして。 萱野:ランプシェードの作品ですよね。 舩島:そうそう。 下から見るとアイヌ文様になってる作品で、すごく良かったんですよ。...

「ゲストハウスから始まった縁」~役員対談:萱野×舩島~前編

「ゲストハウスから始まった縁」~役員対談:萱野×舩島~前編

萱野:今日は、二風谷ワークスのことをもっと知ってもらうために、舩島さんと色々話していこうかなと思っています。 商品だけじゃなくて、「どういう人たちがやってる会社なのか」っていう部分も伝わったらいいなと思っていて。 まずは、舩島さんの今の役割から教えてください。 舩島:はい。今の二風谷ワークスでは、主にBtoBの窓口ですね。 企業さんから「アイヌ文様を使った商品を作りたい」とか、「ロゴに取り入れたい」っていう相談をいただくことが多いので、そのやり取りや商談を担当しています。 最近は、二風谷ワークスの商品を取り扱いたいという店舗さんも増えてきていて、そういう取引先とのやり取りもしています。 萱野:本当に、会社の外側の窓口を全部やってもらってる感じですよね。 僕たちはどうしても、ものづくりとか制作の方に集中しがちなんで。 舩島:そうですね。僕はどちらかというと、今までずっと“商売”をやってきた人間なので、 二風谷ワークスの若いチームの中で、これまでの経験をフィードバックできればいいなって考えてます。 萱野:舩島さんって、僕らからすると少し上の世代じゃないですか。 今おいくつでしたっけ? 舩島:今年63ですね。 普通の会社だったら、もう定年してる年齢です(笑)。 萱野:でも全然そんな感じしないですよね。 舩島:いやいや、中身はおじさんですよ。(笑) これまでも様々な仕事に取り組んできましたが、若い人たちと仕事することが多かったので、そう見えるだけかもですね。 萱野:最初は何から始めたんですか? 舩島:25歳の時に、千歳で飲食店を始めたのが最初です。 企業に勤めたこともありますが、何というかモチベーションが湧かなくて、それで自分でやってみようと始めました。 萱野:料理も自分で? 舩島:作ってました。 学生時代に結婚式場などでアルバイトしていたのですが、その時にシェフの姿を見て料理が好きになったんです。 萱野:そこから、今度はおもちゃ屋をやってたって話もありましたよね。 舩島:そうそう。 スーパーファミコン全盛期ですね。 ゲームだけじゃなくて、将棋とかぬいぐるみとか、何でも置いてるタイプのおもちゃ屋でした。そこで小売の仕組みを徹底的に学びました。 萱野:かなり在庫も抱える仕事ですよね。 舩島:在庫は多かったですね、色々な商品ありましたから。 12月のピーク時は5,000万円分ぐらいありましたね。売上げも順調でした。...

「ゲストハウスから始まった縁」~役員対談:萱野×舩島~前編

萱野:今日は、二風谷ワークスのことをもっと知ってもらうために、舩島さんと色々話していこうかなと思っています。 商品だけじゃなくて、「どういう人たちがやってる会社なのか」っていう部分も伝わったらいいなと思っていて。 まずは、舩島さんの今の役割から教えてください。 舩島:はい。今の二風谷ワークスでは、主にBtoBの窓口ですね。 企業さんから「アイヌ文様を使った商品を作りたい」とか、「ロゴに取り入れたい」っていう相談をいただくことが多いので、そのやり取りや商談を担当しています。 最近は、二風谷ワークスの商品を取り扱いたいという店舗さんも増えてきていて、そういう取引先とのやり取りもしています。 萱野:本当に、会社の外側の窓口を全部やってもらってる感じですよね。 僕たちはどうしても、ものづくりとか制作の方に集中しがちなんで。 舩島:そうですね。僕はどちらかというと、今までずっと“商売”をやってきた人間なので、 二風谷ワークスの若いチームの中で、これまでの経験をフィードバックできればいいなって考えてます。 萱野:舩島さんって、僕らからすると少し上の世代じゃないですか。 今おいくつでしたっけ? 舩島:今年63ですね。 普通の会社だったら、もう定年してる年齢です(笑)。 萱野:でも全然そんな感じしないですよね。 舩島:いやいや、中身はおじさんですよ。(笑) これまでも様々な仕事に取り組んできましたが、若い人たちと仕事することが多かったので、そう見えるだけかもですね。 萱野:最初は何から始めたんですか? 舩島:25歳の時に、千歳で飲食店を始めたのが最初です。 企業に勤めたこともありますが、何というかモチベーションが湧かなくて、それで自分でやってみようと始めました。 萱野:料理も自分で? 舩島:作ってました。 学生時代に結婚式場などでアルバイトしていたのですが、その時にシェフの姿を見て料理が好きになったんです。 萱野:そこから、今度はおもちゃ屋をやってたって話もありましたよね。 舩島:そうそう。 スーパーファミコン全盛期ですね。 ゲームだけじゃなくて、将棋とかぬいぐるみとか、何でも置いてるタイプのおもちゃ屋でした。そこで小売の仕組みを徹底的に学びました。 萱野:かなり在庫も抱える仕事ですよね。 舩島:在庫は多かったですね、色々な商品ありましたから。 12月のピーク時は5,000万円分ぐらいありましたね。売上げも順調でした。...

「アイヌ文様を、今の暮らしの中へ」~役員対談 萱野×鳥海~後編

「アイヌ文様を、今の暮らしの中へ」~役員対談 萱野×鳥海~後編

(前回からの続き) 萱野:最初の頃って、Tシャツから始まりましたよね。 鳥海:はい。2023年のチプサンケの頃から、本格的にTシャツを作り始めたと思います。 萱野:あの頃から、やっぱりデザインが良かったんですよね。 線画のシリーズもそうだし、「普段使いできる」っていうのがすごく大きかった。 工芸品そのものではないけど、アイヌ文化を日常の中に取り入れてもらう。 そういう入り口として、とても良い形だなと思っていました。 鳥海:デザインする時に意識しているのは、「まず自分が欲しいと思えるか」です。 ブランドを立ち上げる時に色々とリサーチしましたが、アイヌ文様の商品って、どうしても渋めのテイストが多かったりして。 もちろんそれはそれで素敵なんですけど、「自分で実際に使うかな?」って考えると、購入まで至らないものも結構あったんです。 だから、そこをデザインの力で、もっと自然に生活の中に取り入れられるようにできないかなと思っていました。 色使いなんかもかなり意識しています。 萱野:僕も今まさに、チプサンケ2025のTシャツを着てますけど、普段使いできるのがいいですよね。 特別な時だけじゃなく、日常で着られる。 鳥海:アイヌ文様そのものは、本当に素晴らしくて、表現の幅が広いと思っています。 作家さんごとの個性もすごく出るし、いろんなものに転用できる可能性がある。 だから、「どう取り入れるか」「どう見せるか」が大事だと思いました。 伝統として残す部分はしっかり残しつつ、新しい要素も取り入れていく。 それが二風谷ワークスのやり方だと思っています。 萱野:最近だと、「洗練されている」って言ってもらえることも増えましたよね。 鳥海:それはすごく嬉しいですね。 私たちが目指している方向性でもあると思います。 萱野:Tシャツの次に大きかったのが、今治タオルのブランケットでしたよね。 クラウドファンディングから始めて。 鳥海:そうですね。 あれは、役員の廣田さんから「ブランケットみたいなものが欲しい」という話があったのがきっかけでした。 ちょうどその頃、ブランドとしてどこを参考にできるか考えていて、アメリカの「Pendleton」みたいな存在が近いのかなと思いました。 ネイティブアメリカンの伝統的な文様を、ブランケットやアパレルに落とし込んでいるブランドです。 「北海道発で、そういうブランドがあってもいいんじゃないか」と思ったのが始まりでした。 萱野:デザインには、僕のおばあさんが作った着物の文様を使っています。...

「アイヌ文様を、今の暮らしの中へ」~役員対談 萱野×鳥海~後編

(前回からの続き) 萱野:最初の頃って、Tシャツから始まりましたよね。 鳥海:はい。2023年のチプサンケの頃から、本格的にTシャツを作り始めたと思います。 萱野:あの頃から、やっぱりデザインが良かったんですよね。 線画のシリーズもそうだし、「普段使いできる」っていうのがすごく大きかった。 工芸品そのものではないけど、アイヌ文化を日常の中に取り入れてもらう。 そういう入り口として、とても良い形だなと思っていました。 鳥海:デザインする時に意識しているのは、「まず自分が欲しいと思えるか」です。 ブランドを立ち上げる時に色々とリサーチしましたが、アイヌ文様の商品って、どうしても渋めのテイストが多かったりして。 もちろんそれはそれで素敵なんですけど、「自分で実際に使うかな?」って考えると、購入まで至らないものも結構あったんです。 だから、そこをデザインの力で、もっと自然に生活の中に取り入れられるようにできないかなと思っていました。 色使いなんかもかなり意識しています。 萱野:僕も今まさに、チプサンケ2025のTシャツを着てますけど、普段使いできるのがいいですよね。 特別な時だけじゃなく、日常で着られる。 鳥海:アイヌ文様そのものは、本当に素晴らしくて、表現の幅が広いと思っています。 作家さんごとの個性もすごく出るし、いろんなものに転用できる可能性がある。 だから、「どう取り入れるか」「どう見せるか」が大事だと思いました。 伝統として残す部分はしっかり残しつつ、新しい要素も取り入れていく。 それが二風谷ワークスのやり方だと思っています。 萱野:最近だと、「洗練されている」って言ってもらえることも増えましたよね。 鳥海:それはすごく嬉しいですね。 私たちが目指している方向性でもあると思います。 萱野:Tシャツの次に大きかったのが、今治タオルのブランケットでしたよね。 クラウドファンディングから始めて。 鳥海:そうですね。 あれは、役員の廣田さんから「ブランケットみたいなものが欲しい」という話があったのがきっかけでした。 ちょうどその頃、ブランドとしてどこを参考にできるか考えていて、アメリカの「Pendleton」みたいな存在が近いのかなと思いました。 ネイティブアメリカンの伝統的な文様を、ブランケットやアパレルに落とし込んでいるブランドです。 「北海道発で、そういうブランドがあってもいいんじゃないか」と思ったのが始まりでした。 萱野:デザインには、僕のおばあさんが作った着物の文様を使っています。...

「二風谷ワークスはどう始まったのか」~役員対談:萱野×鳥海~前編

「二風谷ワークスはどう始まったのか」~役員対談:萱野×鳥海~前編

萱野:今日は、二風谷ワークスの役員兼デザイナーの鳥海さんに、これまでの経歴や、どうして二風谷ワークスに関わるようになったのかを聞いていこうと思います。まずは自己紹介からお願いします。 鳥海:私は二風谷ワークスの役員兼デザイナーとして、ブランド全体のブランディングや商品開発、デザイン業務全般に関わっています。 札幌出身で、大学ではプロダクトデザインを専攻していました。卒業後は奈良県にある「中川政七商店」に6年ほど勤めて、生産管理や商品バイヤー、商品企画・デザインなどの仕事をしていました。 その中で、日本各地の伝統工芸や職人さんたちと関わる機会があって、ものづくりの現場に深く携わってきました。 コロナをきっかけに札幌へUターンして、その後、二風谷ワークスの役員でもある舩島さんに声をかけてもらって、萱野さんと出会ったのが今につながっています。 萱野:札幌の大学から奈良へ行ったんですよね。 鳥海:そうですね。本当は大学で本州の美大へ進学するという憧れはあったんですけど、結果的に札幌でデザインを学びました。 ただ、就職では「道外に出てもっと広い視野で日本のものづくりに関わりたい」という気持ちが強くなり、奈良の会社に入社しました。 萱野:僕は苫小牧高専出身なんですけど、鳥海さんの大学って、もともと札幌市立高専だったところですよね。 鳥海:そうです。高専が4年制大学になった後でした。 大学では機械系やプログラミングみたいな授業もありましたけど、私はもっと手仕事のようなあたたかみのあるものに惹かれていって。 卒業制作では、アイヌ文様を取り入れたランプシェードを制作しました。 萱野:その頃からアイヌ文化に興味があったんですか? 鳥海:実は、そのきっかけをくれたのも舩島さんなんです。 大学時代、アルバイトで舩島さんの会社に行く機会があって、卒業制作のテーマを相談した時に、 「せっかく北海道にいるなら、アイヌ文化をテーマにしたらいいんじゃないか」 と言っていただいて。 北海道出身なのに、自分はアイヌ文化を深く知らなかったなと思って、それをきっかけに研究を始めました。 萱野:僕と舩島さんは、ゲストハウスを立ち上げる前からの付き合いなんですよね。 旭川のゲストハウスで住み込みをしながら事業計画を作っていた時の知人経由で舩島さんが僕を知って、わざわざ二風谷まで来てくれたんです。 そこから、ゲストハウスの公式サイト制作などでもお世話になって、今につながっています。 鳥海:本当に、舩島さんがつないでくれたご縁ですね。 萱野:中川政七商店では6年間働いていたわけですが、その頃から北海道のものづくりに関わりたい気持ちはあったんですか? 鳥海:ありました。 北海道の工芸やアイヌ文化に関わるものづくりをしたいという気持ちはずっとあって、自分がその橋渡し役になれたらいいなと思っていました。 ただ、会社として関わる先はどうしても関西近郊や本州の企業が多くて、在籍中に北海道との仕事を深めることはなかなかできなかったんです。 実は卒業制作を商品化したいと当時の上司に相談したこともありました。 それくらい、地元と関わるものづくりへの思いは強かったですね。 萱野:僕は、コロナ禍でゲストハウスのお客さんが激減した時期に、オンライン物販に可能性を感じて、Tシャツの製造設備を入れてECを始めたんですよね。 地元のアイヌ工芸作家さんにデザインをお願いして商品を作ってみたんですけど、やっぱり「売れる商品を作るノウハウ」は自分にはなかった。...

「二風谷ワークスはどう始まったのか」~役員対談:萱野×鳥海~前編

萱野:今日は、二風谷ワークスの役員兼デザイナーの鳥海さんに、これまでの経歴や、どうして二風谷ワークスに関わるようになったのかを聞いていこうと思います。まずは自己紹介からお願いします。 鳥海:私は二風谷ワークスの役員兼デザイナーとして、ブランド全体のブランディングや商品開発、デザイン業務全般に関わっています。 札幌出身で、大学ではプロダクトデザインを専攻していました。卒業後は奈良県にある「中川政七商店」に6年ほど勤めて、生産管理や商品バイヤー、商品企画・デザインなどの仕事をしていました。 その中で、日本各地の伝統工芸や職人さんたちと関わる機会があって、ものづくりの現場に深く携わってきました。 コロナをきっかけに札幌へUターンして、その後、二風谷ワークスの役員でもある舩島さんに声をかけてもらって、萱野さんと出会ったのが今につながっています。 萱野:札幌の大学から奈良へ行ったんですよね。 鳥海:そうですね。本当は大学で本州の美大へ進学するという憧れはあったんですけど、結果的に札幌でデザインを学びました。 ただ、就職では「道外に出てもっと広い視野で日本のものづくりに関わりたい」という気持ちが強くなり、奈良の会社に入社しました。 萱野:僕は苫小牧高専出身なんですけど、鳥海さんの大学って、もともと札幌市立高専だったところですよね。 鳥海:そうです。高専が4年制大学になった後でした。 大学では機械系やプログラミングみたいな授業もありましたけど、私はもっと手仕事のようなあたたかみのあるものに惹かれていって。 卒業制作では、アイヌ文様を取り入れたランプシェードを制作しました。 萱野:その頃からアイヌ文化に興味があったんですか? 鳥海:実は、そのきっかけをくれたのも舩島さんなんです。 大学時代、アルバイトで舩島さんの会社に行く機会があって、卒業制作のテーマを相談した時に、 「せっかく北海道にいるなら、アイヌ文化をテーマにしたらいいんじゃないか」 と言っていただいて。 北海道出身なのに、自分はアイヌ文化を深く知らなかったなと思って、それをきっかけに研究を始めました。 萱野:僕と舩島さんは、ゲストハウスを立ち上げる前からの付き合いなんですよね。 旭川のゲストハウスで住み込みをしながら事業計画を作っていた時の知人経由で舩島さんが僕を知って、わざわざ二風谷まで来てくれたんです。 そこから、ゲストハウスの公式サイト制作などでもお世話になって、今につながっています。 鳥海:本当に、舩島さんがつないでくれたご縁ですね。 萱野:中川政七商店では6年間働いていたわけですが、その頃から北海道のものづくりに関わりたい気持ちはあったんですか? 鳥海:ありました。 北海道の工芸やアイヌ文化に関わるものづくりをしたいという気持ちはずっとあって、自分がその橋渡し役になれたらいいなと思っていました。 ただ、会社として関わる先はどうしても関西近郊や本州の企業が多くて、在籍中に北海道との仕事を深めることはなかなかできなかったんです。 実は卒業制作を商品化したいと当時の上司に相談したこともありました。 それくらい、地元と関わるものづくりへの思いは強かったですね。 萱野:僕は、コロナ禍でゲストハウスのお客さんが激減した時期に、オンライン物販に可能性を感じて、Tシャツの製造設備を入れてECを始めたんですよね。 地元のアイヌ工芸作家さんにデザインをお願いして商品を作ってみたんですけど、やっぱり「売れる商品を作るノウハウ」は自分にはなかった。...

萱野茂と僕

萱野茂と僕

2026年は、僕の祖父である萱野茂の生誕100年、そして没後20年という節目の年です。平取町や大阪の国立民族学博物館では、特別展も予定されています。萱野茂は大正15年(1926年)生まれ。僕は昭和63年(1988年)生まれなので、祖父とは63歳の年の差があります。萱野茂には三人の子どもがいて、孫は五人います。僕はその中で、下から二番目の孫です。僕がアイヌに関する活動をしていると、新聞のインタビューなどでよく聞かれることがあります。「萱野茂の思いを継いでいるんですね」とか、「偉大なおじいさんがいてプレッシャーはありませんか」といった質問です。でも実は、祖父から「アイヌのことをやりなさい」とか、「資料館を受け継ぎなさい」と言われたことは一度もありません。資料館やアイヌ語教室は、今は僕の父が受け継いでいます。そして父からも、「それを引き継いでやりなさい」と言われたことはありません。●自分で持つ荷物これは祖父の活動が、きっかけはあれど、自ら始めたものだったからだと思います。アイヌの民具を収集すること。アイヌ語の口承文学を記録すること。そういった活動は、祖父自身の内側から出てきたものだったはずです。父がよく話している、祖父の言葉があります。「人から持たされた荷物は重たいが、自分から持つ荷物は軽い。」同じ行動でも、自分で選んだことなら、それほど大変ではない。僕はそういう意味だと理解しています。萱野茂の孫は五人いますが、二風谷に残っているのも、アイヌ関連の活動をしているのも僕だけです。文化を継承することに価値を見出すというのは、簡単なことではありません。誰にでもできることではないと思います。それでも僕は、この活動には大きな意味があると思っています。だから、自分なりの形で続けています。●ユーモアのある人インタビューでよく聞かれるのが、「おじいさんとの思い出は?」「どんな人でしたか?」という質問です。僕の印象としては、とてもユーモアのある人でした。家族が集まると、冗談を言ってみんなを笑わせる。講演でも同じでした。萱野茂の講演を聞いたことがある人は分かると思うんですが、内容はもちろん興味深いんですが、同時に笑える面白さもあるんです。僕は最近、スタンドアップコメディーもやっています。そう考えると、僕の中にあるユーモアの原点には、祖父の存在があるのかもしれません。●書斎での思い出祖父は執筆をするとき、「書斎」と呼んでいた小さな家で作業をしていました。本家のすぐ近くにある建物でした。祖父の家は、親族みんなが「本家」と呼んでいて、僕はその周りでよく遊んでいました。書斎も、僕にとっては遊びに行く場所の一つでした。小学校低学年くらいの頃だったと思います。書斎に行くと、祖父が「大きくなったな」と言って、日記に僕の手形や足形を取ってくれたことがありました。ノートの上に足を乗せて、鉛筆で輪郭をなぞるんです。それが、ものすごくくすぐったかったのを覚えています。●最後に教えてもらったこともう一つの思い出は、祖父が亡くなる直前のことです。僕は17歳くらいでした。祖父は病気で体調も良くなかったんですが、それでも民具を作っていました。その時作っていたのが、キラウシトミカムイでした。おそらく完成する前に亡くなってしまったと思います。その製作中、鉄の棒をヤスリで削ってほしいと頼まれました。僕は高専の機械科に通っていたので、金属加工の実習も受けていました。ヤスリの使い方も知っているつもりでした。でもその時、僕はヤスリを前後に動かしてしまったんです。すると祖父が言いました。「違う違う、ヤスリは押すばりだよ」北海道弁で、「押すばっかり(で使うんだ)」という意味ですね。ヤスリは押すときだけ削れる道具です。思えば、ノコギリの使い方を教えてくれたのも祖父でした。それは、小学校低学年の頃だったと思います。祖父の活動は、誰かに言われて始めたものではありませんでした。僕も同じように、自分で選んだ荷物を持って、これからも活動していこうと思っています。

萱野茂と僕

2026年は、僕の祖父である萱野茂の生誕100年、そして没後20年という節目の年です。平取町や大阪の国立民族学博物館では、特別展も予定されています。萱野茂は大正15年(1926年)生まれ。僕は昭和63年(1988年)生まれなので、祖父とは63歳の年の差があります。萱野茂には三人の子どもがいて、孫は五人います。僕はその中で、下から二番目の孫です。僕がアイヌに関する活動をしていると、新聞のインタビューなどでよく聞かれることがあります。「萱野茂の思いを継いでいるんですね」とか、「偉大なおじいさんがいてプレッシャーはありませんか」といった質問です。でも実は、祖父から「アイヌのことをやりなさい」とか、「資料館を受け継ぎなさい」と言われたことは一度もありません。資料館やアイヌ語教室は、今は僕の父が受け継いでいます。そして父からも、「それを引き継いでやりなさい」と言われたことはありません。●自分で持つ荷物これは祖父の活動が、きっかけはあれど、自ら始めたものだったからだと思います。アイヌの民具を収集すること。アイヌ語の口承文学を記録すること。そういった活動は、祖父自身の内側から出てきたものだったはずです。父がよく話している、祖父の言葉があります。「人から持たされた荷物は重たいが、自分から持つ荷物は軽い。」同じ行動でも、自分で選んだことなら、それほど大変ではない。僕はそういう意味だと理解しています。萱野茂の孫は五人いますが、二風谷に残っているのも、アイヌ関連の活動をしているのも僕だけです。文化を継承することに価値を見出すというのは、簡単なことではありません。誰にでもできることではないと思います。それでも僕は、この活動には大きな意味があると思っています。だから、自分なりの形で続けています。●ユーモアのある人インタビューでよく聞かれるのが、「おじいさんとの思い出は?」「どんな人でしたか?」という質問です。僕の印象としては、とてもユーモアのある人でした。家族が集まると、冗談を言ってみんなを笑わせる。講演でも同じでした。萱野茂の講演を聞いたことがある人は分かると思うんですが、内容はもちろん興味深いんですが、同時に笑える面白さもあるんです。僕は最近、スタンドアップコメディーもやっています。そう考えると、僕の中にあるユーモアの原点には、祖父の存在があるのかもしれません。●書斎での思い出祖父は執筆をするとき、「書斎」と呼んでいた小さな家で作業をしていました。本家のすぐ近くにある建物でした。祖父の家は、親族みんなが「本家」と呼んでいて、僕はその周りでよく遊んでいました。書斎も、僕にとっては遊びに行く場所の一つでした。小学校低学年くらいの頃だったと思います。書斎に行くと、祖父が「大きくなったな」と言って、日記に僕の手形や足形を取ってくれたことがありました。ノートの上に足を乗せて、鉛筆で輪郭をなぞるんです。それが、ものすごくくすぐったかったのを覚えています。●最後に教えてもらったこともう一つの思い出は、祖父が亡くなる直前のことです。僕は17歳くらいでした。祖父は病気で体調も良くなかったんですが、それでも民具を作っていました。その時作っていたのが、キラウシトミカムイでした。おそらく完成する前に亡くなってしまったと思います。その製作中、鉄の棒をヤスリで削ってほしいと頼まれました。僕は高専の機械科に通っていたので、金属加工の実習も受けていました。ヤスリの使い方も知っているつもりでした。でもその時、僕はヤスリを前後に動かしてしまったんです。すると祖父が言いました。「違う違う、ヤスリは押すばりだよ」北海道弁で、「押すばっかり(で使うんだ)」という意味ですね。ヤスリは押すときだけ削れる道具です。思えば、ノコギリの使い方を教えてくれたのも祖父でした。それは、小学校低学年の頃だったと思います。祖父の活動は、誰かに言われて始めたものではありませんでした。僕も同じように、自分で選んだ荷物を持って、これからも活動していこうと思っています。

二風谷ワークスとチプサンケ

二風谷ワークスとチプサンケ

第3回 二風谷ワークスとチプサンケ 私が暮らす平取町二風谷では、毎年8月に「チプサンケ」というお祭りが開催されています。 チプサンケとは、新しく作った丸木舟を初めて川に出すときの儀式のこと。二風谷では50年以上続く恒例行事となっています。 もともとアイヌの伝統社会において、川は人の移動や物流を支える非常に重要な存在でした。鮭を主食とする暮らしの中で、村は常に川の近くにあり、川は交通の要でした。丸木舟を操る技術は、日常生活に欠かせない必須の技術だったのです。 しかし明治以降、日本政府による道路や鉄道、橋の整備が進むにつれ、生活の中心は陸路へと移り、川で丸木舟を扱う機会は次第に減っていきました。 私の祖父・萱野茂の世代は、二風谷の対岸へ渡るために丸木舟を使い、操船技術を身につけていました。しかしその下の世代になると、実際に川で舟を扱う経験はどんどん失われていきます。 そうした中、今から50数年前、祖父を中心に「もう一度、川で丸木舟を扱ってみよう」と始まったのがチプサンケ祭りです。 本祭では、新造船があれば舟に魂を入れる儀式を行い、川で無事に遊べるよう祈りを捧げます。その後、地元の若者が船頭となり、地域の子どもたちや旅行者を乗せて、伝統的な丸木舟「チプ」で川下りを行います。 前夜祭では、地域の人と参加者が一緒になって宴を囲み、地元民と旅行者が垣根なく交流します。毎年このお祭りを楽しみに、何度も足を運んでくださる方も多く、年に一度ここで再会し、「元気にしていたかい」と声をかけ合う光景が生まれています。 チプサンケは、多くのファンに支えられているイベントです。地域のアイヌ関係団体と自治体が協力して運営しています。 私たち二風谷ワークスは、このイベントに参加してくれる方々に向けて、「参加した記念になるもの」を作れないかと考えました。 音楽フェスのように、その年限定のTシャツがあることで、「あの年、あの場所にいた」という記憶がモノと結びつき、より鮮明に残る。北海道でいえば、ライジングサンロックフェスティバルのように、毎年限定Tシャツを楽しみにする人がいるように。 それに倣い、私たちもチプサンケ限定Tシャツの販売を始めました。デザインは毎年変わる、その年だけの特別な一枚です。 「今年も参加したね」「また来たいね」 そんな気持ちと一緒に記憶に残る商品になり、また二風谷に帰ってきてくれる人が一人でも増えたら――そんな思いで取り組んでいます。 販売を始めたのは2023年。2026年で4年目になります。今年の8月に向けても、新しいデザインを企画中です。 また、前夜祭を運営してくれている平取アイヌ協会青年部の皆さんにもTシャツをお渡ししています。手弁当で地域のために動いてくれている方々に、少しでも「やってよかった」と思ってもらえる記念になればと願っています。 2023年デザインはすでに完売し、再販の予定はありません。2024年、2025年デザインはまだ少し在庫がありますが、こちらも在庫限りで再販予定はありません。 チプサンケという時間と、その年の記憶を身につける一枚。 今年もまた、沙流川のほとりでお会いできることを楽しみにしています。 ※チプサンケ・チプの「プ」は全て小文字 チプサンケについて チプとは「チ=我ら、オプ=乗るもの」という意味で、木の幹を削りくぼめて作った丸木舟を指します。二風谷は当時、戸数五十戸ほどの農村で、ほとんどの耕地は北海道でも屈指の水量を誇る沙流川の対岸にありました。その頃はまだ橋がかかっておらず、耕地を対岸に持つ多くの農民にとって、人や物資を運ぶためのチプは生活必需品でした。 詳しくはこちら

二風谷ワークスとチプサンケ

第3回 二風谷ワークスとチプサンケ 私が暮らす平取町二風谷では、毎年8月に「チプサンケ」というお祭りが開催されています。 チプサンケとは、新しく作った丸木舟を初めて川に出すときの儀式のこと。二風谷では50年以上続く恒例行事となっています。 もともとアイヌの伝統社会において、川は人の移動や物流を支える非常に重要な存在でした。鮭を主食とする暮らしの中で、村は常に川の近くにあり、川は交通の要でした。丸木舟を操る技術は、日常生活に欠かせない必須の技術だったのです。 しかし明治以降、日本政府による道路や鉄道、橋の整備が進むにつれ、生活の中心は陸路へと移り、川で丸木舟を扱う機会は次第に減っていきました。 私の祖父・萱野茂の世代は、二風谷の対岸へ渡るために丸木舟を使い、操船技術を身につけていました。しかしその下の世代になると、実際に川で舟を扱う経験はどんどん失われていきます。 そうした中、今から50数年前、祖父を中心に「もう一度、川で丸木舟を扱ってみよう」と始まったのがチプサンケ祭りです。 本祭では、新造船があれば舟に魂を入れる儀式を行い、川で無事に遊べるよう祈りを捧げます。その後、地元の若者が船頭となり、地域の子どもたちや旅行者を乗せて、伝統的な丸木舟「チプ」で川下りを行います。 前夜祭では、地域の人と参加者が一緒になって宴を囲み、地元民と旅行者が垣根なく交流します。毎年このお祭りを楽しみに、何度も足を運んでくださる方も多く、年に一度ここで再会し、「元気にしていたかい」と声をかけ合う光景が生まれています。 チプサンケは、多くのファンに支えられているイベントです。地域のアイヌ関係団体と自治体が協力して運営しています。 私たち二風谷ワークスは、このイベントに参加してくれる方々に向けて、「参加した記念になるもの」を作れないかと考えました。 音楽フェスのように、その年限定のTシャツがあることで、「あの年、あの場所にいた」という記憶がモノと結びつき、より鮮明に残る。北海道でいえば、ライジングサンロックフェスティバルのように、毎年限定Tシャツを楽しみにする人がいるように。 それに倣い、私たちもチプサンケ限定Tシャツの販売を始めました。デザインは毎年変わる、その年だけの特別な一枚です。 「今年も参加したね」「また来たいね」 そんな気持ちと一緒に記憶に残る商品になり、また二風谷に帰ってきてくれる人が一人でも増えたら――そんな思いで取り組んでいます。 販売を始めたのは2023年。2026年で4年目になります。今年の8月に向けても、新しいデザインを企画中です。 また、前夜祭を運営してくれている平取アイヌ協会青年部の皆さんにもTシャツをお渡ししています。手弁当で地域のために動いてくれている方々に、少しでも「やってよかった」と思ってもらえる記念になればと願っています。 2023年デザインはすでに完売し、再販の予定はありません。2024年、2025年デザインはまだ少し在庫がありますが、こちらも在庫限りで再販予定はありません。 チプサンケという時間と、その年の記憶を身につける一枚。 今年もまた、沙流川のほとりでお会いできることを楽しみにしています。 ※チプサンケ・チプの「プ」は全て小文字 チプサンケについて チプとは「チ=我ら、オプ=乗るもの」という意味で、木の幹を削りくぼめて作った丸木舟を指します。二風谷は当時、戸数五十戸ほどの農村で、ほとんどの耕地は北海道でも屈指の水量を誇る沙流川の対岸にありました。その頃はまだ橋がかかっておらず、耕地を対岸に持つ多くの農民にとって、人や物資を運ぶためのチプは生活必需品でした。 詳しくはこちら