萱野茂と僕
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2026年は、僕の祖父である萱野茂の生誕100年、そして没後20年という節目の年です。
平取町や大阪の国立民族学博物館では、特別展も予定されています。
萱野茂は大正15年(1926年)生まれ。
僕は昭和63年(1988年)生まれなので、祖父とは63歳の年の差があります。
萱野茂には三人の子どもがいて、孫は五人います。
僕はその中で、下から二番目の孫です。
僕がアイヌに関する活動をしていると、新聞のインタビューなどでよく聞かれることがあります。
「萱野茂の思いを継いでいるんですね」とか、
「偉大なおじいさんがいてプレッシャーはありませんか」といった質問です。
でも実は、祖父から「アイヌのことをやりなさい」とか、
「資料館を受け継ぎなさい」と言われたことは一度もありません。
資料館やアイヌ語教室は、今は僕の父が受け継いでいます。
そして父からも、「それを引き継いでやりなさい」と言われたことはありません。
●自分で持つ荷物
これは祖父の活動が、きっかけはあれど、自ら始めたものだったからだと思います。
アイヌの民具を収集すること。
アイヌ語の口承文学を記録すること。
そういった活動は、祖父自身の内側から出てきたものだったはずです。
父がよく話している、祖父の言葉があります。
「人から持たされた荷物は重たいが、自分から持つ荷物は軽い。」
同じ行動でも、自分で選んだことなら、それほど大変ではない。
僕はそういう意味だと理解しています。
萱野茂の孫は五人いますが、
二風谷に残っているのも、アイヌ関連の活動をしているのも僕だけです。
文化を継承することに価値を見出すというのは、簡単なことではありません。
誰にでもできることではないと思います。
それでも僕は、この活動には大きな意味があると思っています。
だから、自分なりの形で続けています。
●ユーモアのある人
インタビューでよく聞かれるのが、
「おじいさんとの思い出は?」
「どんな人でしたか?」
という質問です。
僕の印象としては、とてもユーモアのある人でした。
家族が集まると、冗談を言ってみんなを笑わせる。
講演でも同じでした。
萱野茂の講演を聞いたことがある人は分かると思うんですが、
内容はもちろん興味深いんですが、同時に笑える面白さもあるんです。
僕は最近、スタンドアップコメディーもやっています。
そう考えると、僕の中にあるユーモアの原点には、祖父の存在があるのかもしれません。
●書斎での思い出
祖父は執筆をするとき、「書斎」と呼んでいた小さな家で作業をしていました。
本家のすぐ近くにある建物でした。
祖父の家は、親族みんなが「本家」と呼んでいて、
僕はその周りでよく遊んでいました。
書斎も、僕にとっては遊びに行く場所の一つでした。
小学校低学年くらいの頃だったと思います。
書斎に行くと、祖父が
「大きくなったな」
と言って、日記に僕の手形や足形を取ってくれたことがありました。
ノートの上に足を乗せて、鉛筆で輪郭をなぞるんです。
それが、ものすごくくすぐったかったのを覚えています。
●最後に教えてもらったこと
もう一つの思い出は、祖父が亡くなる直前のことです。
僕は17歳くらいでした。
祖父は病気で体調も良くなかったんですが、それでも民具を作っていました。
その時作っていたのが、キラウシトミカムイでした。
おそらく完成する前に亡くなってしまったと思います。
その製作中、鉄の棒をヤスリで削ってほしいと頼まれました。
僕は高専の機械科に通っていたので、金属加工の実習も受けていました。
ヤスリの使い方も知っているつもりでした。
でもその時、僕はヤスリを前後に動かしてしまったんです。
すると祖父が言いました。
「違う違う、ヤスリは押すばりだよ」
北海道弁で、「押すばっかり(で使うんだ)」という意味ですね。
ヤスリは押すときだけ削れる道具です。
思えば、ノコギリの使い方を教えてくれたのも祖父でした。
それは、小学校低学年の頃だったと思います。
祖父の活動は、誰かに言われて始めたものではありませんでした。
僕も同じように、
自分で選んだ荷物を持って、これからも活動していこうと思っています。